読書の秋です。秋の夜長は読書が似合う。気温も涼やかで、思索にふけるには持ってこいの季節だ。私自身がむさぼるように本を読んだのは、中学から高校にかけてのこと。そして、最近になって強く感じることなのですが、その当時読んだ本こそが、まさに血となり肉となって、私自身を作ってくれたという実感があります。小説でも詩歌でも、その頃読んだ作品を改めて読むと、今でも心がふるえ、自分自身のルーツの一部がそこにあると感じるのです。読書には、まさに「人を作る」力と効用があるのだと言えます。
今朝、胸を熱くしながら読みふけった 古川薫 『高杉晋作―わが風雲の詩』 (文春文庫) を引っ張り出した。
『 おもしろきこともなき世をおもしろく 』
人生を終えるまさにその時に、尊王攘夷の志士「高杉晋作」は冒頭の言葉を残した。この人、かの有名な松下村塾で広く学問を修め、将来有望な逸材として、「松下村塾四天王」の一人に数えられる。決断力と行動力が尋常じゃなく、高杉晋作は特に若い頃、破天荒な男だったらしい。よく言えば豪快。と言っても人を斬ったり罪を働いたという訳ではなく、毎夜毎夜、酒を飲んでは大暴れ。芸者をあげて大さわぎ。気の弱い後輩は引っ張り回されっぱなし。しかも飲み代は藩に付けてしまうのだから恐れ入る。一文も持ってなかったのに、藩の後払いということで無断で軍艦を購入したことなど数え上げれば枚挙に暇なくスケール感がハンパない。
一度きりの人生、つまらない世の中でも自分の力で面白くしていこう、自分の力で変えてみせよう、、、と、爽快なポジティブさ。また、この句の下の句には、看病をしていた女流歌人・野村望東尼が、
『 すみなすものは心なりけり 』
と続けたと言われます。まさしくその人生がつまらなくなるか面白くなるかは、すべて自分の心次第ということです。そんな高杉晋作にいつも振り回されていたのが、幼なじみであり弟分の伊藤俊輔。たくさんの盟友が幕末で亡くなっていくなか、彼は明治に入っても生き残り、後の初代内閣総理大臣となり、兄貴分である彼を評してこんな言葉を残しています。
「 動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し、動けば雷電のようで、言葉を発すればまるで風雨のようである。衆目駭然、敢て正視する者なし。多くの人はただただ驚き、あえて正視する者すらいない。これ我が東行高杉君に非ずや、これこそわれらの高杉晋作なのである。」
司馬遼太郎の「世に棲む日日」も自身のバイブルのひとつ。読み終える度、「高杉晋作 あっぱれ!」と感嘆。★実に男の浪漫です★男子たるものかくありき的な気分に浸ります。肝っ玉の太さを幕末の人には感じずにいられません。高杉晋作然り 西郷隆盛然り 坂本竜馬然り単に頭脳明敏だとか、腕っぷしが強かったとかではなく、「歴史上のポイントを知ることができる能力」「そのポイントで中心的な役割を果たせる能力」「組織や慣習に縛られない能力」等が備わっていた。
世の中にはふざけているが憎めない、いつの間にかまわりがその人の方を向いて、まとまっている。そんな人が時々いる。高杉晋作が他の幕末男子と違うのは、彼を憎んでいた人がほとんどいないという事ではないだろうか。
長引く不況、天災、領土問題等 、現在の日本は危機的状況です。大変な時こそ、あえて高杉晋作の人となりまた言葉を思い出し、どのような苦境に立ち入っても、
「 おもしろいのう 」と、微笑を漏らしながら
大局観をもって『仕事』ができる漢でありたいと改めて感じ入った秋の一日でした。
おもしろきことも無き世に面白く
すみなすものは心なりけり 高杉晋作