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和色

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たまたま『和色』という言葉にぶつかった。

日本の伝統色は和色とも呼ばれ、何と500種類以上もあるそうで、日本の色は植物染めや花の色に由来するものが圧倒的に多く、じつに風流でその彩りに思わず見入ってしまった。「いろは歌」にも「いろ(色)はにほ(匂)へとち(散)りぬるを(匂いたつような色の花も散ってしまう)」とあるように、古来よりの日本人の繊細な感性をよく表している。「桜色」「桔梗色」「山吹色」躑躅色」・・・

thFTG4NXU3家業が呉服屋であったこともあり、学生時代に京都市内の小川通中立売下るにあった染と織の後継者の育成を目指した専門学校に通っていた。京都市内に設立された日本染織学園である。染色学界の大先達である上村六郎氏を学園長に迎え、人間国宝の羽田登喜男氏などの作家や老舗問屋が中心になって開校した専門学校だった。募集広告を見た瞬間、「ここに行くんだ!」と直感し、母の後押しもあって直ぐに入学の手続きをする。

純粋かつ理想高かった幻の寺子屋で、老舗「龍村」を引退した染めと組紐織りの職人や、西陣織の職人、芸大からファイバーアートの先生が教えにくるという恵まれた環境で、おのおのの分野でその技を惜しみなく教えてくれた。プロを育てるカリキュラムは実に充実したものだった。卒業生は日本伝統工芸展、現代工芸展、 新匠工芸展、京展、現代クラフト展など 様々な公募展で入賞、入選をはたし第一線で活躍している。

が、今の私といえば全く関係のない仕事に勤しんでいる。しかし、ものづくりに対するこだわりには多少たりともその学舎で学んだ事が活かされているのであろう。感謝!

工房が本当に懐かしい

真田の本懐

信濃国上田藩そして松代藩の初代藩主として、明治まで続く松代藩真田家の基礎をつくりあげた真田家最大の功労者真田信之は、

「 常に法度の多きは宜しからず 」 と言ったと伝えられています。

あまりにも「幸村」が有名なので、目立たちませんが、智将と言われた、かの「真田昌幸」の嫡男であり、大阪の陣で徳川家康を追いつめた、あの「真田幸村」の兄です。
特筆すべきは、父と弟が苦しめた天下人「徳川家康」が信之を恨むのではなく、逆にその「誠実さ」を評価したことで結果的に真田家は幕末まで存続しました。

th2R9H95H2今、会社でも学校でも多くの人を統率する時は、必ず「規則」(法度)が必要です。しかしながら「規則」ばかりで縛ってしまえば、そこで活動する人達の自由な発想や考えを削いでしまい、リーダーにとっても「規則」に頼って現場を顧みず、せっかくのチャンスを活かせないでいることも多々あるように思います。この「常に法度の多きは宜しからず」にあるように、信之は常に現場主義で、時には公平・公正にとらわれず血の通った大胆な采配と、相手の立場になって考える感性がとても豊かだったのではないでしょうか?上役と部下が、また、師匠と弟子といった上下の者の考えていることを両方、バランスよく理解し、結果強者ぞろい群雄割拠の戦国時代を見事生き抜きました。

無機質で事なかれ主義の現代社会。

 ////////// 真田の本懐 //////////

が、生き残るカギかもしれません。 いくつもの局面を乗り越え、悩み苦しみ葛藤した過去が層となって重なっている。そんななかでも、ブレない軸、譲れない一線を貫き通したからこそ、「本懐」なのですね。

私の地元大阪上町。駆け巡って遊んだ大阪城や真田山。thEGRA9YRD
幼き頃を思い出しながら、大河ドラマ「真田丸」を大いに大いに満喫し、タレント揃いの戦国武将の名言から多くのことを学びたいと思います。

そんな真田山。陸軍墓地は昔、真田幸村が大坂の陣の時に大坂城の出丸として陣地をつくり、徳川の大軍を迎え撃った古戦場跡に西南戦争、日清、日露戦争から、この太平洋戦争に至るまでの戦没者将兵を埋葬したり、お骨を預かっています。知っていましたか。

7月に入りめちゃくちゃ暑い。真田山にはプールも。

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プールで、思いっきり泳いで冷め切った体に温かい食べ物を食べると、ほんわかします。あの感覚は今でも忘れられません。