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Neo-Bushido(新武士道)

Neo-Bushido(新武士道)

「武士道」は知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である。

東大合格者No.1の東京の名門、開成高校では国語の授業教材に『武士道』の抄訳が使われたりします。学校側が、この国のリーダーとなるべき人材に必要な素養だと考えているからでしょう。

倫理よりも経済、品格よりも拝金主義を重視した結果

たどり着いたのが今のこの国の姿です。生活するために経済・お金は大切ですが、倫理・品格とのバランスを失うと不幸を招きます。

他国のいいところは真似たらいいと思いますが、

悪いところまで真似る必要はありません。子どもたちが放射能に脅かされ、働き盛りの若者がまともに働くことができない社会、このような社会って考えるまでもなくおかしいでしょ。

「おれは頑張っている。政治が悪いんだよ。」と言って、政治のせいにして批判するのは簡単。しかし、国をつくっているのは一人一人の国民です。国民一人一人の総和が、国柄、国体になります。

子どもたちには最高の教育を施す

この国を良くするためには、ものごとを総合的にとらえることのできる優秀な人材を育てなければなりません。

教える側としては、「しばらくの間、自分たちは着たきり雀で、オフ(仕事外)の時間を削ろうと、子どもたちには最高の教育を施す」というような誇り高い覚悟が必要でしょう。

新渡戸稲造の『武士道』

新渡戸稲造の『武士道』に書いてあることは、大きく分けて二つあります。

一つは、克己。欲望を抑え、辛いこと苦しいことに耐え、自分を磨き高めること。名誉を重んじ、恥を知り、勇気をもって悪と戦うこと。もう一つは、公のために生きること、他人のために役立つこと、人を思いやること、そういう生き方が立派であるということ。

難しいことではありません。たとえば学生諸君にとっては、勉強を怠らないとか、ゴミをポイ捨てしないとか、級長や生徒会の役員を引き受けるとか、地域のお祭りのお手伝いをするとか、困っている人のために何かするとか、高齢者・年少者に席を譲るとか、そういうことから始まるわけです。自己中心的な考えから新しい武士道精神へ、大人も子どももシフトすることが、この国の惨状を解決する糸口になるはずです。

 

2002年度(平成14年度)から、いわゆる「ゆとり教育」が採用されました。

 

ところがその結果は、見るも無惨な失敗。最大の問題は、子供たちの学力の低下が顕著に表れてきたこと。たとえば、OECD加盟国の生徒の学習到達度調査(PISA)などの結果を見ると、点数も順位も明らかに下がる。そこで、これを契機に、学習指導要領を元に戻そうとする動きが始まり、「脱ゆとり教育」の流れが定着しました。

「教育の強靭化に向けて」では、学習指導要領改訂と”次世代の学校・地域創生の実現”の推進に向けた重点事項が示されました。

「ゆとり教育」に戻ることはない

さらに、2016年度の習指導要領改訂において、現行の学習内容を削減することはしないと文科省が「ゆとり教育」との決別を明言。学習内容を削減し、学力低下の一因を作ったとされる「ゆとり教育」に戻ることはないとした。高校は2017年度に改訂。その後、小学校の次期学習指導要領は2020年から、中学校は2021年から全面実施、高校は2022年から年次進行による実施を予定しています。

少子化が叫ばれる昨今、取り立てて資源を持たないこの国が生きていくためにはソフトウエア立国を目指すよりほかはないが、そうしたソフトの代表は教育であることからすると。。。。。

実に無駄な時間を浪費したものですね。 ( ̄- ̄=)あぁ…あ

 

民間教育に課せられる期待は大きい。

武士道は知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である。

若者よ!これからの日本を牽引する気概を持って真の学問を希求して欲しい。そして、

真の学問とは、筆記できるものではないこと。真の学問は、行と行との間にある事を忘れないでほしい。

散る別れこそ/悲しかりけれ

すっかり親しんだ桜

 

”散る別れこそ悲しかりけれ”

ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ(西行)

の心境です。春の訪れに花を添えてくれた、桜との別れが少し寂しく感じられます。

そんな中、大半が遅咲きの八重桜のため、まだまだ見頃を保って桜の名所として知られる

大阪造幣局桜の通り抜けが今年も4月17日まで開催されます。

造幣局は、大阪に本局、さいたま市及び広島市に支局を持つ独立行政法人です。
日本の硬貨を製造している場所です。
場所柄、一般客の入場は厳しく制限され、事前予約なしでは工場内の見学もできません。
 
しかし、

桜の開花時期だけは、局内の桜を誰でも見学することができます。その通路が一方通行であること、見学のみで宴会などはできないことから、
『桜の通り抜け』と呼ばれています。

明治時代から続く春の恒例行事で、長さ560メートルの並木道で八重桜を中心に131種350本の桜を見ることができます。

花見=宴会というイメージを持つわたしなのですが、花見で泥酔するのは無粋というもの。ほろ酔いで桜に酔うのが風流な花見酒。コンビニ弁当を重箱に詰め直すだけでも雰囲気満点の花見弁当に。

風呂敷を使うのも素敵な演出です。ビニールシートではなく花ござを敷けば、桜の根本にも優しくて情緒たっぷり。ちょっとした会話にも「桜ことば」を散りばめたら、もう完璧です。

知っていますか?葉桜と呼ばれるさくらの葉は食べられるんですよ。

 

 

木の樽に平たく重ねて塩漬けにしたものを、さくら葉(さくらば)と呼び食用として利用します。和菓子の桜餅には欠かせません。他にはアイスクリーム、クッキーなどに混ぜ香り付けの材料として使用します。さくら葉の香りの成分は芳香属化合物のクマリンと呼ばれる精油成分に由来します。生の葉ではあまり香りはしませんが、塩漬けされることでその香りが出てくる訳です

桜ことばの例

*花時:見頃 *花盛り:満開 *桜狩り:花見に行く

*零れ桜:満開になって散る桜 *桜吹雪:花びらが舞い散るさま *桜影:水辺の桜が水面に映る様子 など

さて、潔く散ってゆく桜の花、このような美しい花とともに逝くことができたら、そう願ったのは平安時代末期の歌人、西行法師です。

願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ

西行と言えば、若かりし頃は北面の武士として院を護衛し、出家後は各地を巡って多くの歌を詠みました。その一つは、学生時代に皆さんも学んだ国語の教科書のなか、「万葉・古今・新古今」にも出てきます。西行の歌は、後鳥羽上皇の勅令で藤原定家らが編集した『新古今和歌集』に、最も多い94首入選しています。また、彼の生きざまは江戸時代の俳聖・松尾芭蕉に大きな影響を及ぼしました。西行は、詠んだ歌のとおり旧暦の如月(新暦では桜の花が咲くころ)に生涯を終えるわけですが、その生きざまに当時の人々はいたく感動したようです。恥、責任、潔さ、これらの心的要素に生きざまの美しさを感じるのかもしれません。

「花は桜木、人は武士」

と昔の人は言ったそうです。まだ桜と別れるのは名残惜しいですが、葉桜を見ていて、ふと、そのようなことを思いました。

最後に、葉桜は初夏(夏)の季語になります。

英語では、「a cherry tree in leaf」

名残惜しいですが桜の季節はもう終わりですね。新緑がまぶしい季節です。

* 花に嵐の *

今年は好天が続き例年以上に桜を楽しませてくれましたね。

日本人ならだれもが心を躍らせ、だれしも桜の花を見るとき、春を感じて浮き立つ想いとともに、何かしらの特別な感情や記憶が蘇るのではないでしょうか。

人生の大きな節目に春という季節、入学や卒業があり、就職や退職。

そのとき、その背景にはいつも桜。その時期の大切な1ページを華麗に彩ってくれます。

今朝、ふっと足もとを見ると桜の木の根もとに、散った桜の花びら

そんな花びらは土に帰り、次に咲く花たちの為の栄養になるんですね。 人々の大きな節目をまた祝うために、まるで世代交代をするバトンリレーのように。。。 私も一日一日、一年一年、良い種をまき、良い肥やしになりたいなって思いました。

 

「守破離」(しゅはり)という言葉を聞いたことがありますか?

とても有名な言葉なので、一度や二度は耳にしたことがあるでしょう。 「守破離」とは、芸術や茶道、武道等においての「師弟関係の在り方」について説いた言葉です。新年度のこの時に伝えておきたいと思います。

「守」は師匠から教わった型を身につけること、

「破」 は今まで教わったことに加えて、他の教えも取り入れていくこと、

「離」 は新しい世界を生み出し、独自のものをつくりだすことです。

 

「守」は、親から教わった型を身につける時期。 幼児から小学校の高学年ぐらいまでになるでしょうか。

「破」は、親から教わったことに加えて、他からも吸収していく時期。 思春期にあたります。

「離」は、精神的に親から独立し、自我を確立する時期。 早ければ高校生でこの時期に入るかもしれません。

 

新しいステージで、誰より早く結果を出して成績を上げたければ、誰より早く勉強の基本を身に付けることです。

そして、実力を早く身に付けるにはどうすれば良いでしょうか。それは、出来る先輩を徹底的に真似ることです。

何故なら、出来る人のノウハウは、貴重な成功や失敗の経験から最良の方法を追求してきた結果に他ならないからです。

先輩たちの経験を一つひとつ自身で体験を積み上げるのは不可能ですし時間もかかる。ならば今ある最良のノウハウを「真似て」身に付ける方が合理的というものです。

真似て、守って、身に付けて、完全に自分のものにした後に、「破」って、「離」れる

わずかな期間でめまぐるしく変化していきます。しかし自分のことゆえ、その変化に気づきにくいものです。

 

 

「一生の親友」 と、互いに 「認め合える同僚」 、また人生の師と仰ぐ 「恩師」 にもきっと出会えることでしょう。

週末の雨は、花散らしの雨となりました。

 

「 花に嵐のたとえもあるぞ

 さよならだけが人生だ 」 井伏鱒二

さよならだけが人生だから、今この出会い、時間を、大切にしよう!